ごんもり幸男物語

 議員とは、「小さな声に耳を傾ける人」であり、誰もが安心して相談できる「身近な存在」でなければならない――それが、私・ごんもり幸男の信条です。そう思うようになった背景には、幼い頃からの性格の悩みや経済苦、家族の闘病、そして社会人時代の苦闘と葛藤がありました。

▶幼稚園時代

引っ込み思案の末っ子長男


 春日部市藤塚に、2人の姉がいる末っ子長男として生まれました。幼稚園時代からおとなしく引っ込み思案。回りの目が気になって、人前で話すことや自分の気持ちを伝えることが大の苦手。発表会の場でも足が震えて、思うように声が出ない――そんな子どもでした。5歳の頃に、タクシードライバーをしていた父親が病に倒れ、入院。その後およそ10年間、入退院を繰り返す父を、家族全員で支える生活が始まったのです。

▶小学生時代①

母の内職の思い出


 母はクリーニング店で働く一方、家計の足しにしようと、あらゆる内職を掛け持ちました。私もよく手伝ったものです。真冬の夜に、母ときょうだい3人で火鉢を囲みながら、おもちゃの丸メンコの側面を一枚一枚、ロウ(蝋)で固めて接着する作業をしたことを、覚えています。当時は、そうやってくっつけた10枚程度のメンコを、1セットにして販売することがありました。私にとっては、家族団らんの「楽しい思い出」でもあります。

▶小学生時代②

いじめを止めに入ったら


 小学5年の時、クラスメートがいじめられているのを見て、勇気を出して止めに入ったことがあります。すると今度は、私がいじめの標的に……。支え守ってくれたのは、母や家族だけではありません。なかなか相談できない私に気づき、うまく説明できない思いを汲み取って言葉にしてくれた、学校の先生がいました。落ち込む私のことをいつも気にかけ、励ましてくれる隣近所の“おじちゃん・おばちゃんたち”もいました。この時の経験が、「小さな声を聞く人に」「相談できる身近な存在に」という政治信条の土台を築いてくれたのかもしれません。

▶中学・高校・大学時代

支えがあったからこそ


 貧しいわが家の状況は、変わりませんでした。外食といえば、入院する父を見舞った後、病院や駅ビルの食堂で母や姉と一緒に昼食を取ったことくらい。なので「お見舞いに行くよ」と聞くと、食べ盛りの私は密かに喜んだものでした。家族で旅行に出かけた記憶も、ほとんどありません。

 それでも母は「息子が社会に貢献できる人に」と願い、私の勉学を後押ししてくれたのです。高校そして大学受験では、悔しい思いもしました。それでも「向学心」を燃やし続けることができたのは、家族や地域の方々の支えと応援があったからです。就職した二人の姉も、私の学費を工面してくれました。在学時代に築いた経験と友情は、生涯の宝です。

(当時のスキーブームに乗っかって、大学のスキーサークルに入部。かつて引っ込み思案だった私を知る旧友から驚かれました)

▶社会人時代

挫折を乗り越えて


 外食上場企業に入社した私は、24歳で飲食店の店長に。しかし経営の壁に直面し、自ら退社。1年間の失業期間も経験しました。この時も、親身に相談に乗って励ましてくれる地域の先輩の存在に、どれほど支えられたでしょうか。奮起した私は、チョコレートやウエハースなどを手掛ける製菓会社に再就職。12年間働いて、営業開発課長まで務めました。自分が携わった商品が店先に並び、それを笑顔で手に取る親子の姿を見た時の喜びは、決して忘れることができません。

▶政治の舞台へ

春日部への恩返しのために


 生来の引っ込み思案で、人前で話すことさえ苦手だった私が、政治の道を志した理由があります。幼い頃の経済苦や父の闘病、小学校時代のいじめ、高校・大学受験の苦闘、そして社会人時代の失業経験……その時その時に、私の小さな声を受け止めて、支え励ましてくれた人がいました。悩んだ分だけ、同じ悩みを持つ人の気持ちを「分かち合いたい」と思える自分にもなれました。

 お一人お一人の「小さな声」に耳を傾ける、安心して相談できる「身近な存在」に、自分自身がなれたなら!――そんな思いと決意を抱いて、2011年4月の埼玉県議会議員選挙に挑戦しました。以来3期12年。その時の誓いは、今も全く変わりません。

愛する春日部を守るためのさまざまな「防災対策」も、いじめや不登校などに悩む子どもたちのための「LINE相談窓口」の創設も、すべては、春日部に生まれ育った経験から生まれた取り組みでした。

コロナ禍の克服、物価高騰への対策、そして防災・減災の強化へ――ごんもり幸男の挑戦と恩返しは、まだまだここからが本番です。